投稿日:2016-06-22 Wed
散策中に見つけた喫茶店『四次元ポケット 静』妙にツボにハマってしまい苦笑。

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投稿日:2016-06-09 Thu
・東海道線にはまだSLが走っており、駅には顔を洗う水場があった。・体育の時は裸足で、学校には足洗い場という浅い水槽があった。
・西新井大師の火事を見た。昭和41年の出来事だ。
・牛乳のパックが三角形をしていた。「テトラパック」という。
・電話ボックスで酔っ払いが立ち小便をしていた。
・都心でも都電や「トロリーバス」が走っていた。
・ため池でオタマジャクシ、ザリガニがとり放題だった。
・セイタカアワダチソウを竿にしてザリガニをつった。エサはよっちゃんイカ。
・犬は放し飼いだった。
・東京12チャンネル(現テレビ東京)は、朝9時頃にならないとはじまらなかった。
・ロール式のトイレットペーパはなく、重ねてあるチリ紙だった。
・駄菓子屋にはもんじゃ焼きのテーブルがあった。
・築地の勝鬨橋が跳ね橋で、橋が上がる時の信号待ちをした。
・国道15号を荷馬車が通っていた。その後には湯気の出る馬糞が落ちていた。
・ヘリコプターが低空から民家をDDTを撒いた。その日は洗濯物を干せないのだ。
・馬のひづめをつける場所があった。焼いた蹄鉄をつけるので、ものすごい臭いがした。
・「ロバのパン屋」。ロバが屋台を引っ張っていた。
・50円玉が小さくなり、これを偽金だと言って受け付けないタバコ屋の
ばあさんがいた。
・40年代末の「袋のインスタントラーメン」は、37円だった
(ハウス食品のタマゴメン)
・病気の時のご馳走は、パイン缶だった。パインのアイスも美味しかった。
・卵は「もみ殻」にくるまれて売っていた。あの頃の卵は堅かった。
・ゆで卵は遠足か、運動会のときしか、食べられなかった。
・香りやかわいいイラストのティッシュ集めて花を作って遊んだ。
・修学旅行の準備として、「洋式便所の使い方」を教わった。
・小学校で肝油ドロップを配っていた。

投稿日:2016-06-08 Wed
・防弾ガラスのカケラを「匂いガラス」と称してガキ相手に商売しているテキヤがいた。・針金細工のバイク、三輪車、風車などを路上で売っていた。30円だったと思う。
・水玉模様の手ぬぐいをベルトに挟んでぶら下げている高校生がいた。
・その学生の帽子は油を塗ってコテコテだった。
・お餅は年末にお米屋さんに頼んで配達してもらった。
・駅には有料の手荷物預かりや両替屋があった。
・てんぷらや魚を買うと古新聞に包んでくれた。
・テレビドラマの最中に画面の下半分にテロップ広告が出てきてうるさかった。
・バスがバックする時は車掌が笛を吹いて合図していた。
・お好み焼やタコ焼きにマヨネーズをかける習慣はなかった。
・ヤクルトは宅配のみでお店では買えなかった。
・ビデオデッキはリモコンが別売りだった。
・飛行機に乗って外国旅行へ出かける人を、万歳をして見送った。
・庭の物置には、樽に白菜が漬けてあった。
・羽毛のダウンなんてものがなかったので、冬はやたらと厚着だった。
・木製の氷冷蔵庫があった。氷屋さんが運んできて氷を上の段に入れて使う。
・シラミ駆除のため頭にDDTを散布された。
・暖房器具は火鉢で練炭の火をおこすのが朝一番の仕事だった。
・昼間は玄関もお勝手も開けっ放しだった。
・銭湯が17円、10円でたこ焼きが3つ買えた。
・小学生が新聞配達してた。
・遠足のおやつの定番はクッピーラムネ・都こんぶだ。 チクロ入りの
お菓子もよく食べた。
・自転車用のスピードメーターが欲しかった。セミドロップハンドルは羨望だった。
・銭湯にはゴム動力の船のプラモを持って行き遊んだ。
・平凡パンチは地元で買うのが恥ずかしいから隣の町まで行った。
・東京ドームの辺りは競輪場があり、公営ギャンブルが廃止された後はプールになった。
・電卓の電源はコンセントで表示される桁数は6桁だった。
・ナイロンの風呂敷は高級なお出かけ用だった。
・板垣退助、岩倉具視、伊藤博文、聖徳太子の顔を子供でもよく知っていた。

投稿日:2016-06-07 Tue
・電話機の横にぐるぐる回すレバーがあり交換手を呼び出しつないでもらった。 ・通話が終わるともう一度電話がかかってきて「○○円です」といわれお店に払った。
・掛け時計はぜんまい式で時々とまった。
・停電は日常茶飯事で、特に台風の翌日には停電になった。
・コカコーラは歯が溶けるといわれ、時々しか飲めなかった。コーラで髪の毛
を脱色した。
・バイクに乗る時、ヘルメットは必要なかった。
・うちわは竹製が普通、ごく高級品にプラスチック製のものが使われていた。
・遠足に持っていくおにぎりは竹の皮で包んだ。
・ビン飲料の王冠は裏がコルク製では裏をはがしてバッジにした。
・缶飲料には穴あけ用器具がついて、向こう側に1個空気穴をあけて飲む。
・鉛筆は1本10円が普通だったところへ100円のユニ鉛筆が登場しておったまげた。
・シャープペンシルは高級品だった。
・牛乳ビンに土を入れ、蟻を飼って観察した。
・歯磨き粉は文字通り「粉」だった。サンスターの緑色の粉は大人の味だった。
・‘氷バナナ’というものがあり、 歯磨き粉のバナナ味がした。
・学校でお休みの人には、給食のパンをワラ半紙に包んで届けた
・幼稚園の時、みんなで庭の片隅に穴を掘らされた。出来上がったものは「外便所」。
・子供のヘア-スタイルは、男は坊ちゃん刈り、女は「ワカメちゃんカット」が定番だ。
・駄菓子屋で「バラキャラ(ばら売りのキャラメル)」が1個1円で売られていた。
・「ゴミ屋さん」という人がいて、鐘の音が聞こえると、母がゴミを持って
走っていった。
・お風呂は薪を焚いて沸かしていた。
・靴下は穴が空いても縫ってまた穿くのが当たり前だった。
・筆箱には10円のボンナイフが入っていた。

投稿日:2016-06-06 Mon
以前、「はすぴー倶楽部」で“今の20歳台の若者が聞いたら、驚くような昭和ネタ“を募ったところ、たくさんの投稿をいただいたので紹介しよう。
(投稿者の大半は昭和30~40年代生まれ)
・コタツは練炭の掘りごたつだった。祖母はこたつで納豆を作っていた。
・醤油やソースは家から空きびんを持って買いに行った。
・郵便局のカウンターは客側と局員側がガラスで仕切られていた
・リンスは洗面器でお湯に溶いて薄めて使うものだった。
・運動会は裸足で走るので、前日、生徒全員で校庭の小石を拾ったものだ。
・学校の近くで前にピンクやブルーのひよこを売っている怪しいおじさんがいた。
・ 道の端にはドブがあり木製のふたが所々あいていて、よくはまった。
・夜間消毒といってなにやら車で町中に消毒液か粉を吹きかけてた。
・ 家の窓ガラスの鍵はねじ式だった。 アルミサッシはなかった。
・ 穴の空いてない50円玉は磁石にくっつく。
・ 女性の下着(スリップ)のことを「シミュズ」と言っていた。
・ 地下鉄銀座線は、駅に着く直前に電気が一瞬消えた。
・ トイレは和式でくみとりだった。スリッパをよく落として怒られた。
・ハムカツは5円、コロッケは10円でソースをかけてもらえ、新聞紙に包んでくれた。
・パチンコは1つづつ親指ではじいた。
・「パソコン」と言わずに「マイコン」と言った。「マウス」はなかった。
・フロッピーディスクは「8インチ」、約20㎝もあった。
・フロッピードライブは20万円くらいした。
・マイコンは8色で英数字とカタカナしか使えなかった。
・漢字ROMというものを3万円ほど出して買わないと半角カタカナしか
表示できなかった。
・プログラムは「カセットテープ」に記録した。
・ソフトウエアは、「カセットテープ」で売られていた。
・コンピューターの紙テープ媒体に色をつけたものを駄菓子屋で5円で売っていた。

投稿日:2016-06-02 Thu
ひょんな繋がりで「京都国際マンガミュージアム」の担当者と知り合いになった。「すすめ!! パイレーツ」「ストップ!! ひばりくん!」で有名な江口寿史氏の
巡回展について、宣伝して欲しいと依頼がきたので、ブログにアップする。
でも、俺の知り合いで京都在住の人っていないので宣伝にならないような、、、汗
『江口寿史展 KING OF POP 京都編』

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